炸醤麺と水餃子とは
2012/11/18更新
●炸醤麺とは
炸醤麺は、中国北部生まれの、茹でた麺に炸醤(味噌を油で炒めた物)をかけた料理である。
麺には炸醤の他に、生のキュウリや茹でた各種豆類、野菜が載る。
使用する麺は様々であるが、中国北部では白い麺を使う。
*当ページでは白い麺を特別にひいきしており、黄色い日式中華麺は応援の対象外としております。ご了承下さい。
中国の白い麺には、麺生地を麺棒で平たくのばして包丁で切る「切麺」、両手でひっぱって細くのばす
「拉麺」、固まり状の麺生地を包丁で削って直接おゆに放りこむ「刀削麺」と、それらの特徴を
製麺機で再現したものがある。
麺は茹でたまま熱いこともあるし、水で冷やすこともある。
炸醤は作り置きで冷たいこともあれば、作り立てで温かいこともある。
炸醤麺は炸醤面とも書く。炒醤麺とは少なくとも現代中国では書かない。北京語の発音は正確に「かな」では表せないが、日本では「ジャージャー麺」
「ジャージャーめん」「ジャージャーメン」「じゃあじゃあ麺」「じゃあじゃあめん」
「じゃーじゃー麺」「じゃーじゃーめん」「ジャージャ麺」「ジャージャめん」
「ジャジャ麺」「ジャジャめん」「じゃじゃ麺」「じゃじゃめん」
「ジャージャン麺」「ジャージャンめん」「じゃあじゃん麺」「じゃあじゃんめん」
「ザージャン麺」「ザージャンメン」「チャジャン麺」「チャジャンめん」「チャジャンメン」
「チャジャンミョン」「ジャジャン麺」「ジャジャンミョン」等と書く。
*当ページでは漢字表記を推奨します。
●盛岡の炸醤麺史
中国生まれの川村氏が、1948年(昭和23年)秋、肴町の屋台で炸醤麺と餃子を出していた。しかし、数ヶ月で閉店。
中国から帰国後、大通りサンビル近くの屋台で餃子を売っていた白龍(パイロン)の故・高階氏が、
客の勧めにより炸醤麺を始めた。これが現在に続く盛岡炸醤麺の始まり。
私の父・容一は盛岡生まれだが、横浜中華街に近い横浜高等商業に進学。
八幡製鉄就職後「美味しいものが食べられそう」という理由で、1943年(昭和18年)12月、北京の北支那製鉄に赴任を希望し、
現地で炸醤麺と水餃子を覚えた。
戦後、それまで炸醤麺も餃子も一度も見たことが無い妹達に作らせたりしていた。白龍の高階氏にも炸醤麺を作るよう勧めたという。
●水餃子とは
餃子は満州族の料理を起源とし、清朝以来中国各地に伝わったらしい。日本に広まったのは、
戦後、中国から引き揚げた方々が始めた店からである。焼餃子は、食べ残して冷たくなっ
た水餃子や蒸し餃子を焼いて食べていたのが始まりとされ、現在も北京では一般の食堂で焼いた餃子を見かけないという。
*当ページは、おゆで茹でた水餃子を特別にひいきし、水餃子の情報だけを扱っております。
ご了承下さい。
geminizz@hamakko.or.jp
荒川文治(あらかわ ふみはる)
神奈川県横浜市
炸醤麺と水餃子大好き荒川のブログ
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