山東省と炸醤麺 2001/05/16登録

わたしの 「山東省の炸醤麺と韓国の物が似ているのはなぜか?」という疑問に対し、神荻晃徳さんから 貴重なお話を寄せて頂きましたので紹介します。

神荻さんありがとうございます。


良く気付いたですね!実は、深い話がある。

明末清初、鄭和下南洋、の時代まで。 山東省は中国の中でも、極端に貧しい地方。同じ意味で福建、広東、海南も言える。 当時、内陸の中央部に近い江南が魚米ノ郷として、豊かな象徴。 未開な海は海賊、悪魔がいる謎の世界。 海に近い土地は、塩分の影響で貧民が住む土地であった。 瘠せた土地で生まれた民は、餓死が新世界を捜すか、決断せねばならぬ! 決死で海外へ船出した人が今の華僑と呼ばれた人達。 僕の先祖も福建省から台湾へと渡った!余談でした。

山東の立体地形を見れば解かる様に、陸続きは山々に拒まれている。 出口は海のみ。当時の帆船の操船技術は貿易風に乗れば、 山東の栄城から韓国の仁川まで2−3日で高い確率で到着する。 300年来、大航海時代の産物として、山東省の華僑が韓国に移住し続けた。 移民の生存者は進化論では、優秀な遺伝子を持った強靭な生存適任者。 山東人が船で持った食べ物は何でしょうか?小麦粉と水です。麺ですね!

炸醤麺は何でしょうか? 僕の調べでは痲婆豆腐飯、カレーライス、牛丼、お茶漬け、掛けそば、、、、共通点 は? お袋の味に近い、国民食。

戦前、北京と山東省の小学生は学校帰りに、お母さん!お腹空いた!のオヤツ! 毛沢東の長征中、国民党軍の移動食のベスト3に炸醤麺が入っている。 黒い醤は保存できるソース。麺は即製食品。 麺を茹でて、ソースを掛ければ、完成する。 炸醤麺は大量に均一な味を供給できる給食。 因みに、共産社会の給食に、何所も炸醤麺がベスト3に入る。 庶民的に偉大な食事。

麺のルーツは、西域のシルクロードから、小麦の麺條が伝来した。 江北(揚子江より北)は麺。江南は米。 江北の麺は小麦粉のグルテンを生かす調理方法。 白麺は北の民族で高級食品を意味する。 雑穀は色が混ざる、黒くなるから、低級と思われた。

江南は日本の夏に近い、高温多湿の季節が長い。 完全乾燥(水分20%以下)で蛋白質を腐らずに保存する必要がある。 食べる時、カンスイで発酵させて、柔らかく、膨張させて、水を吸わせるKnow-Howが ある。 麺類も例外ではない。福建人と広東人の麺はミイと呼びます。 江南のカンスイで処理した黄麺は、東南アジアに<ミイ>と呼ばれて、広がってい る。

黄麺の日本上陸は長崎ちゃんぽん。ちゃんぽんは福建語の意味では<全部>。 前の食事に食べ残ったおかずを炒めて、あんかけして、黄麺に掛ける五目ソバの意 味。 鄭成功の父は鄭芝龍は長崎の生まれ、海賊と倭寇の交流が黄麺を日本に上陸させた。 当時の通商人は長崎が基地で、國際都市で、中国料理が伝来した。 福建省から長崎へ、日本の黄麺が広がった。多様化した。日本のラーメン文化になっ た。

素麺は福建省が清朝末に皇帝様に上納した貢品。 漢字では<寿麺>:皇帝様が長生きできる麺。北京語では<ソーメン>と発音する。 原料は当時の福建省では貴重な小麦粉が原料である。

年代別に麺の伝来時を調べると、時代と共に、商品名が出てくる。 シルクロードから、長安へ。清朝の北京へと首都に全国の貢品が集まる。 流行した商品は再び、中国の各地方へと伝わる、進化する。 再びに新商品は貢品として、首都へ集まる。 平和な時代で、品評会の役割を果した上納の貢品は権力の象徴だけでなく、 皇帝様が優れた物を表彰すると、地方の特産品として、商工流通に貢献した。

移民の歴史、地方風土の地理環境、食文化の進化で炸醤麺が生まれた。

神荻晃徳(黄明徳)より寄稿 2001/May/14


geminizz@hamakko.or.jp

荒川文治(あらかわ ふみはる)
神奈川県横浜市

炸醤麺と水餃子情報のトップページへ